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吉志部の里と難波吉志一族
千里丘陵南西部に位置する紫金山。現在、吉志部神社を中心に風土記の丘、総合公園として整備されているこの辺りは、その昔、吉志部の里と呼ばれ、大和時代から平安時代にかけて難波吉志一族が活躍していました。
難波吉志一族は、朝鮮半島から渡ってきた進んだ技術を持った人々といわれています。「吉志」というのは、朝鮮半島にあった新羅の国で使っていた役人の位の称号で、日本に渡ってから吉志(貴志、岐志、吉師)と呼ばれた人はたくさんいましたが、中でも難波の津(現在の大阪城付近)に住みついた一族を難波吉志と呼んでいたようです。 岸部にいた難波吉志の先祖は安部難波吉志といい、大阪市阿倍野の四天王寺と関係が深いといわれています。
吉志一族は、代々「吉志の大神宮」を守り神として崇敬し一族の繁栄と周辺の民衆の幸福を祈願して暮らしていました。
応仁の乱で焼失、焼け残った神鏡
吉志部神社の創建時期は明らかではありませんが、社伝によると崇神天皇の時代に大和国の瑞籬から奉遷して祀られ「大神宮」と称したとありますが、淳和天皇の時代である天長元(824)年に天照御神と改称したこともあるようです。
ちなみに正式に吉志部神社となったのは、明治3(1870)年、神仏分離の発令を機に改められてからです。
古くから極めて壮麗な社殿であったと伝えられていますが、応仁の乱の兵火でことごとく焼け落ちてしまいます。焼け跡には奇跡的に神鏡のみが残されていたことから、それを村人たちの手によって再び奉祀して文明元(1469)年に再建、さらに天文3(1534)年に中興されました。
江戸時代、祭神は天照皇大神を主神とした七柱で七社明神と呼ばれ、吉志部村の鎮守として祀られていました。後に豊受大神を合祀し、正徳3(1713)年、正遷宮の棟札には「吉志部村鎮守八社 」と記されています。
二代将軍秀忠に届いた、社殿造営への思い
現在建立する位置に本殿が再建されたのは、棟札から慶長15(1610)年8月28日とわかります。三好長慶(摂津芥川山城主)の孫、吉志部弥一衛門尉家次とその弟、吉志部次郎右衛門尉一和の兄弟によって勧進されたもので、舌味村の大工により造営されました。 社殿の再建は、家次と一和兄弟のひとかたならぬ願望が結実したものなのです。
桃山時代、一和は京都方広寺大仏殿鐘楼の造営を命じられ、無事工事を終えた時、「これもひとえに天照皇大神の御徳」と奉謝し吉志部の里に天照皇大神の社殿再建を決意します。そして人々にその思いを伝え、建設にむけて力を尽くし奔走しました。一和の熱意は時の将軍、二代秀忠にも聞こえ、いたく感動した秀忠は、方広寺工事の余材をもって社殿を造営する許可を与えるとともにその労をねぎらいました。
完成した本殿は全国でも類例の少ない七間社流造、また様々な組物や装飾、彩色が施された桃山様式の神髄が見てとれる大変華やかなもので、平成20(2008)年に焼失するまで、約400年の間大切に守られ、吹田市内では最古の木造建築でした。
受け継いだ社殿を後世へ
拝殿は元禄5(1692)年以前に建築され、詳細は不明ですが正徳3(1713)年に拝殿・幣殿が再建されました。天保4(1833)年、本殿の覆屋が建てられます。以降、桧皮葺の屋根や極彩色の軒下などの経年劣化が防がれました。
さらに幕末に拝殿が建て替えられましたが、大正時代にはその拝殿を神門に転用し、拝殿と幣殿が本殿覆屋に建て継がれて一体化しました。
吉志部神社本殿の希少な建築様式、豊かな装飾性をもった歴史的価値と保存性の高さ、また近世初頭の村社会を知る学術的価値から昭和47(1972)年3月、大阪府文化財保護条例による指定文化財となりました。その後平成5(1993)年8月17日、国指定の重要文化財となります。 本殿変遷の史料としては寛永4(1627)年と天保2(1831)年の棟札が残されています。
再び全焼、崇敬者と地域の情熱で復興へ
本殿再建から400年を目前に控えた平成20(2008)年5月23日未明、不審火により本殿および拝殿を全焼するという被害を受けました。ニュースの映像によると空高く火柱がたち、あっという間に焼け落ちています。残念ながら歴史的価値の高い建造物や貴重な神器のほとんどを失ってしまいました。その結果、同年9月8日に重要文化財の指定は解除されました。
しかし奥田富夫宮司の再建決意は早く、翌日には氏子総代を招集し復興に向けた話し合いが開始されました。そして六か村各奉賛会の方々で再建委員会を結成、これまでの社殿をそのまま再現することを決定し、実現のためにご尽力いただきました。
櫻井敏雄工学博士には半年に亘って、焼け跡から構造や装飾を復元するための調査をしていただいた上で、設計をお願いしました。施工は、飛鳥時代の創業、世界最古の企業として知られる金剛組に依頼、平成22(2010)年1月9日、地鎮祭を執り行い、約1年半の工期を経て完成。平成23(2011)年5月22日、竣工いたしました。
再建された本殿は、400余年という時を超て、安土桃山時代に建てられた当初の色彩が蘇りました。拝殿は、焼失前のように本殿覆屋、幣殿とは一体化はされず、大正期以前の本殿覆屋と分離した配置となりました。